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戦前の日本の鉄鉱石調達
日本の近代鉄鋼産業は南部藩士。大島高任による洋式高炉での出銑成功(1858年)以来150年あまりの歴史をもつ。ただし、 この釜石での生産は鉄鉱山と一体化された製鉄所による銑鉄までの一貫生産であり、資源調達システムの観点からいえば、古代から中国地方を中心におこなわれていた「たたら製鉄」と本質的な違いはなかった。
1901年に操業開始した官営八幡製鉄所も、当初は内地原料を使用する予定であったが、国内鉱の供給能力が不足していたため、間もなく輸移入への依存に切り替えられた。ここに鉄鉱石の大量輸移入を前提とした銑鋼一貫生産が成立し、戦後に完成することになる大量資源調達システムにとつての前史が始まる。10年代から30年代前半にかけての八幡製鉄所の鉄鉱石調達については奈倉(1984)の詳細な研究がある。以下ではその成果に加え、田部(1982)、長島(1987)などに依拠して戦前の官営八幡製鉄所(のち日本製鉄)八幡製鉄所)の鉄鉱石調達を概括し、前史の概観にかえることとする。
官営八幡製鉄所の鉄鉱石供給源は中国、朝鮮、英領マレーであった。朝鮮では日本統治下で鉄鉱山を国有化し、直接に支配していた。朝鮮鉄鉱石は第一次世界大戦直前には八幡製鉄所の調達量の3~ 5割を占めたが、品位が低いため、 その後は主要供給源にはなりえなかった。
最重要の供給源となった中国。大冶鉄鉱山からの調達は、それを所有。経営する民族企業6)との15年間の長期契約にもとづいて1900年からスタートした。04年には大蔵省預金部資金による多額の借款がなされ、八幡製鉄所へ独占的に納入し、鉱石代金を借款の元利償還に優先的にあてるという枠組みに移行した。ところが鉱山の経営不振などのために生産。調達量は低迷した。日中戦争期の38年に日本軍は大冶鉄鉱山を占領し、これを日本製鉄に与えた。この結果、42年には大幅な増産を達成したが、戦況の悪化にともなって調達できなくなっていった。
これに対して英領マレーでは、南洋鉱業7)のジョホール(スリメダン)鉄鉱山をはじめ、 日本資本によって数力所の鉄鉱山が開発され、ほぼ全量が日本向けに輸出された。マレー鉄鉱石の輸入は1921年に始まり、29年に中国からの輸入量を凌駕して最大の鉄鉱石供給源となったが、41年のイギリスによる日本資産凍結によって途絶した。
資源調達システムの観点から見れば、大冶鉄鉱山では単純輸入から融資買鉱、 さらに鉄鋼企業による国際的な垂直統合へと順を追って統合度を高める方向へ進んだことになる。当初は日中双方の利害の一致にもとづく長期契約方式であったと考えられるが、多額の借款がなされて以後の長期契約は日本の軍事力を背景としたものであり、不安定性をはらんでいた。垂直統合への進展はこの弱点をいっそうの軍事的展開によって打開しようとしたものであった。
一方、英領マレーでの開発輸入は、① 日本資本単独による開発であり、②開発主体が鉱業企業(採掘企業)であるという特徴をもつ。開発主体のうち南洋鉄鉱が日本鋼管の子会社であるが、それ以外の日本鉱業、南洋鉱業、飯塚鉄鉱はいずれも専属的供給先である八幡製鉄所とは資本的に独立した企業であった。つまり、 日本鋼管が企業グループによるキャプティブマイン(自社専属鉱山)方式を追求したのに対して、八幡製鉄所は開発輸入を担う鉱業企業と企業系列を形成したのである。
なお、戦前以来の総合商社である三井物産と三菱商事はこの時期どうしていたか。両社は岩井産業、安宅産業とともに官営八幡製鉄所の一次問屋に指定され、銑鉄。鋼材の対日輸入や国内流通については戦時統制下も含めて絶大な流通支配力をもっていた(佐藤1978)ほか、原料炭を含む石炭の取引でも重要な役割を果たしたが、鉄鉱石の開発や輸移入については主要な担い手ではなかった。
三井物産は、石炭以外の鉱物資源の分野においては、アメリカ石油、中国非鉄金属鉱石の調達のほか、三井財閥傘下企業が日本政府・軍から受命した南方(東南アジア)開発事業においてコーディネーターの役割を果たした。一方、三菱商事はその前身である三菱合資営業部の時代から大冶鉄鉱石の輸送を担当していた。そこでは自社船による中国向けの石炭・雑貨輸送と大冶鉄鉱石の対日輸送とを組み合わせて安価な輸送サービスを提供することによって八幡製鉄所の競争力を支えていた。
このような両社のエピソードは、鉄鉱石の開発輸入への参画こそ果たしていないものの、総合商社としての固有の機能が戦前からすでに発揮されていたことを示すものである。
戦後復興期の鉄鉱石調達システム
敗戦後、1947年まで鉄鉱石輸入はGHQによって許可されず、国内鉱と砂鉄等のみによって高炉を稼働していた。48年、輸入再開の当初は中国鉱石が大部分を占めたが、49年の中国革命後は調達が困難になっていった。
1950年には外貨割当の枠内で民間貿易が復活し、51年からは自動承認輸入が併用された。一方、50年の朝鮮戦争を機に鋼材需要が高まり、粗鋼増産に必要な原料を数量的に確保するとともに、その調達コストを下げることが大きな課題となっていった。
鉄鋼産業では日本製鉄が過度経済力集中排除法の適用によって1950年に八幡製鉄と富士製鉄に分割されたほか、戦前以来の日本鋼管に加えて川崎製鉄が千葉製鉄所を建設して銑鋼一貫生産に乗り出し(53年に1号高炉火入れ)、競争的な産業組織がつくりだされつつあった。原料の大量輸入を前提とした臨海立地の新鋭銑鋼一貫製鉄所という設計思想と投資戦略が日本鉄鋼産業全体に普及し、60年代に定着することになる。
こうした情勢のもとで1952年、八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管の3社によって海外製鉄原料委員会が設立された(その後すべての高炉企業を組織し、62年には10社体制となった)10)。同委員会は新規海外鉱山の調査、開発輸入条件の交渉、物流システムの研究など、鉄鋼原料大量確保のために日本鉄鋼産業全体を代表して活動した。つまり、 日本鉄鋼企業は生産・販売では激しく競争しつつ、原料調達においては協調することとしたのである。
日本の鉄鉱石輸入は、戦後当初は単純輸入が支配的であったが、海外製鉄原料委員会の活動とそれに呼応した総合商社を中心に開発輸入への系統的な取り組みがなされた結果、1950年代初めから融資買鉱が始まった。開発参加方式1950年代の鉄鉱石輸入量は年間1、000万トン以下であった。供給源は、地域としてはマレーシア、 フィリピンなど東南アジアに集中していたが、それぞれの鉄鉱山の規模が比較的小さいため、銘柄ごとに山元―輸入商社―鉄鋼企業の排他的取引関係をとる場合が多かった。
1960年代初頭までの鉄鉱石開発輸入プロジェクトヘの投融資の主体は、鋼管鉱業、 日鉄鉱業、 日本鉱業などの鉱業企業を別にすれば、木下商店(60年、木下産商と改称)、東京通商(65年、東通と改称)などの鉄鋼専門商社、および当時の巨大貿易商社であった江商などの「関西五綿」である。
「関西五綿」をはじめとする繊維系商社は、戦前からの貿易商社であり、戦後の政府管理貿易の時期においても各種輸出組合・輸入組合や4貿易公団などの貿易実務代行をつうじて食糧や原材料など繊維以外の貿易を取り扱うようになった。1949年末から50年初にかけての民間貿易の再開にさいして、繊維産業が外貨を獲得するための輸出産業として政策的に位置づけられた。50年8月に商社の海外支店設置が許可されると、繊維系商社各社はただちに海外支店網を展開し始めた。三井物産。三菱商事がまだ解体の打撃から復活する途上であるという好条件もあり、繊維系商社は50年代に大手貿易商社として成長し、取扱商品分野を多角化していった。鉄鉱石輸入への取り組みもその一環である。
一方、鉄鋼専門商社は一貫して国内の鋼材流通の仲介が主たる業務であった。鋼材輸出は日本に駐在する外国商社や繊維系貿易商社を媒介しなければならず、直接貿易に取り組む場合も基本的には鉄鋼関連分野にとどまった。鉄鋼専門商社の多くはいずれかの鉄鋼企業とのあいだで企業系列H)の関係にある。そのうち鉄鉱石輸入の分野で代表的なものは次のとおりである。
旧日本製鉄(八幡製鉄・富士製鉄)系列:木下産商、東南貿易
日本鋼管系列:東通(旧・朝日物産)、岸本商店
川崎製鉄系列:山本商店、南洋物産
1950年代の鉄鉱石開発輸入は鉄鋼専門商社、総合商社など各種貿易商社を利用するという形態で行われていたが、現在と比較して鉄鋼専門商社の比重が高い点に特徴がある。利用される鉄鋼専門商社はいずれかの鉄鋼企業とのあいだで継続的・排他的取引を中心とする系列関係にある。この時期の有力な鉄鋼専門商社で鉄鋼企業とのあいだに資本関係のあるものは少なく、ゆるやかな系列関係であつたといえる。