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日本の大量資源調達システムの確立
1950年代半ばから70年代初めにおよぶ日本の高度経済成長において、鉄鋼産業はリーディング産業としてその先頭に立ってきた。鉄鋼企業による臨海立地の新鋭銑鋼一貫製鉄所建設ラッシュの結果、粗鋼生産量は飛躍的に増大した。60年代の10年間に世界の粗鋼生産量は34億トンから60億トンヘと2.6億トン伸びたが、日本の伸びは実にこのうち最大の3割弱を占めた。
このような高炉を中心に置く銑鋼一貫製鉄所の建設は、鉄鉱石(および原料炭)の大量輸入を前提としたものであり、 その安定。低廉確保が不可欠の条件であった。
一方、1960年12月にオーストラリアが鉄鉱石輸出を解禁し、ブラジルなどとともに新興鉄鉱石生産国として台頭してきた。ここに大量需要とそれに見合う大量供給の条件が形成され、国際的な取引が遠隔地間で大量かつ継続的におこなわれるという世界鉄鉱石市場のパラダイムが新しくつくりだされた。日本の鉄鋼企業と総合商社による大量資源調達システムの形成はこのようなパラダイム転換をもたらしたのである。
日本の鉄鉱石調達の長期的動向の概略を示すとともに、大量資源調達システム確立と鉄鉱石市場のパラダイム転換の画期的意義について検討する。
敗戦翌年の1946年には日本鉄鋼産業の生産量は銑鉄20万トン、粗鋼56万トンにまで落ち込んだが、その後、加速度的に増産を続け、高度経済成長の終点である73年には銑鉄9、000万トン、粗鋼1億1、900万トンを記録した。その後は銑鉄8、000万トン前後、粗鋼1億トン前後で一進一退の停滞局面が長く続いた。90年代から2000年代にかけてゆるやかな増産基調となり、07年には粗鋼1億2、000万トンと34年ぶりに史上最高記録を更新したが、翌年の世界同時不況により、急ブレーキがかかっている。
鉄鉱石の国内生産量は1961年に戦後最高となる280万トンを記録したが、その後は縮小し、99年以降はついに生産量の記録がなくなった。銑鉄生産に連動して増大する鉄鉱石需要は基本的に輸入によってまかなわれることとなった。鉄鉱石輸入は48年から再開され、74年に1億4、200万トンで史上最高に達した。鉄鉱石の輸入依存度は51年に早くも50%を超え、67年に90%を超え、73年に99%に達した。
参考までに1940年代前半の状況もかかげておいたが、戦前の内地の銑鉄生産量のピークは42年の430万トン、鉄鉱石輸移入量のピークは41年の570万トンである。いずれも戦後10年前後の間に凌駕し、70年代以降の規模とは比較にならない。
戦後の鉄鉱石の輸入元を国。地域別別に見れば、1950年前後に東南アジアの供給源が開拓され、50年代にインド(ゴア1)を含む)、60年代後半にオーストラリア、70年代前半にブラジルの比重が急速に拡大している。その後はオーストラリアとブラジルヘの集中傾向が徐々に進んでいる。
以上、高度成長期を通じて海外供給源の開拓と輸入の増大が急激に進み、オイルショックまでに基本的な構造が確立したと見ることができる。