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戦後復興期の鉄鉱石調達システム
敗戦後、1947年まで鉄鉱石輸入はGHQによって許可されず、国内鉱と砂鉄等のみによって高炉を稼働していた。48年、輸入再開の当初は中国鉱石が大部分を占めたが、49年の中国革命後は調達が困難になっていった。
1950年には外貨割当の枠内で民間貿易が復活し、51年からは自動承認輸入が併用された。一方、50年の朝鮮戦争を機に鋼材需要が高まり、粗鋼増産に必要な原料を数量的に確保するとともに、その調達コストを下げることが大きな課題となっていった。
鉄鋼産業では日本製鉄が過度経済力集中排除法の適用によって1950年に八幡製鉄と富士製鉄に分割されたほか、戦前以来の日本鋼管に加えて川崎製鉄が千葉製鉄所を建設して銑鋼一貫生産に乗り出し(53年に1号高炉火入れ)、競争的な産業組織がつくりだされつつあった。原料の大量輸入を前提とした臨海立地の新鋭銑鋼一貫製鉄所という設計思想と投資戦略が日本鉄鋼産業全体に普及し、60年代に定着することになる。
こうした情勢のもとで1952年、八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管の3社によって海外製鉄原料委員会が設立された(その後すべての高炉企業を組織し、62年には10社体制となった)10)。同委員会は新規海外鉱山の調査、開発輸入条件の交渉、物流システムの研究など、鉄鋼原料大量確保のために日本鉄鋼産業全体を代表して活動した。つまり、 日本鉄鋼企業は生産・販売では激しく競争しつつ、原料調達においては協調することとしたのである。
日本の鉄鉱石輸入は、戦後当初は単純輸入が支配的であったが、海外製鉄原料委員会の活動とそれに呼応した総合商社を中心に開発輸入への系統的な取り組みがなされた結果、1950年代初めから融資買鉱が始まった。開発参加方式1950年代の鉄鉱石輸入量は年間1、000万トン以下であった。供給源は、地域としてはマレーシア、 フィリピンなど東南アジアに集中していたが、それぞれの鉄鉱山の規模が比較的小さいため、銘柄ごとに山元―輸入商社―鉄鋼企業の排他的取引関係をとる場合が多かった。
1960年代初頭までの鉄鉱石開発輸入プロジェクトヘの投融資の主体は、鋼管鉱業、 日鉄鉱業、 日本鉱業などの鉱業企業を別にすれば、木下商店(60年、木下産商と改称)、東京通商(65年、東通と改称)などの鉄鋼専門商社、および当時の巨大貿易商社であった江商などの「関西五綿」である。
「関西五綿」をはじめとする繊維系商社は、戦前からの貿易商社であり、戦後の政府管理貿易の時期においても各種輸出組合・輸入組合や4貿易公団などの貿易実務代行をつうじて食糧や原材料など繊維以外の貿易を取り扱うようになった。1949年末から50年初にかけての民間貿易の再開にさいして、繊維産業が外貨を獲得するための輸出産業として政策的に位置づけられた。50年8月に商社の海外支店設置が許可されると、繊維系商社各社はただちに海外支店網を展開し始めた。三井物産。三菱商事がまだ解体の打撃から復活する途上であるという好条件もあり、繊維系商社は50年代に大手貿易商社として成長し、取扱商品分野を多角化していった。鉄鉱石輸入への取り組みもその一環である。
一方、鉄鋼専門商社は一貫して国内の鋼材流通の仲介が主たる業務であった。鋼材輸出は日本に駐在する外国商社や繊維系貿易商社を媒介しなければならず、直接貿易に取り組む場合も基本的には鉄鋼関連分野にとどまった。鉄鋼専門商社の多くはいずれかの鉄鋼企業とのあいだで企業系列H)の関係にある。そのうち鉄鉱石輸入の分野で代表的なものは次のとおりである。
旧日本製鉄(八幡製鉄・富士製鉄)系列:木下産商、東南貿易
日本鋼管系列:東通(旧・朝日物産)、岸本商店
川崎製鉄系列:山本商店、南洋物産
1950年代の鉄鉱石開発輸入は鉄鋼専門商社、総合商社など各種貿易商社を利用するという形態で行われていたが、現在と比較して鉄鋼専門商社の比重が高い点に特徴がある。利用される鉄鋼専門商社はいずれかの鉄鋼企業とのあいだで継続的・排他的取引を中心とする系列関係にある。この時期の有力な鉄鋼専門商社で鉄鋼企業とのあいだに資本関係のあるものは少なく、ゆるやかな系列関係であつたといえる。