高度成長期の鉄鉱石調達

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1960年代は鉄鉱石の大量需要と大量供給の双方の条件が成立した時期である。一方では、鉄鋼第3次合理化計画のもとで各地に臨海銑鋼一貫製鉄所が建設され、大量の鉄鋼原料が必要となった。他方では、 まず、60年12月にオーストラリアが鉄鉱石輸出を解禁し、数年のうちに世界有数の鉄鉱石輸出国となった。次に66年4月、 ブラジルに大型専用船を受入可能なツバロン港が開港した(最大船型15万重量トン)。これらの条件のもとで、60年代をつうじて大量輸入のための体制づくりが進み、60年代後半から軌道に乗る。こうして日本の鉄鉱石輸入の条件は根本的に変化した。


客観的条件の変化の第一は、輸入元の多元化・遠距離化である。1950年代においては鉄鉱石の年間輸入量はまだ1、000万トンに満たず、フィリピン、マレーシアなど東南アジアの比較的小規模な鉄鉱山からの輸入でまかなえた。ところが、60年代に鉄鉱石需要は急激に増大し、既存供給源の鉱量枯渇ともあいまって、新たな供給源の開拓が必要となった。輸入量は1億トンを超えるまでに急増し、供給源は世界各地へと多元化した。


オーストラリア、南米(とくにブラジル)、インドはこの時期に「3大供給源」と呼ばれるようになり、 それ以来現在まで大きな比重を維持している。


供給源の遠距離化にともない、鉄鉱石の輸送コスト削減が日本鉄鋼産業にとって大きな課題となった。ヨーロッパの製鉄国はアフリカや南米を主要な供給源としている。アメリカは消費鉄鉱石の6割以上を自給しつつ、不足分は南米にある、鉄鋼企業のキャプテイブマインに依存している。ところが日本は、鉄鉱石の輸入依存度が製鉄国中もっとも高いうえに、3大供給源への依存度が高まり、海上輸送距離が拡大した。輸入鉄鉱石価格(CIF)価格)中に占めるフレート(海上運賃)の比重が大きいため、 日本鉄鋼企業の国際競争力は原料調達コストによって制約されていたのである。ことに、1962年4月には新たにブラジル・イタビラ鉄鉱石の第1次長期契約が締結され、南米鉄鉱石の輸送コスト削減は緊急の課題となった。


第二に、鉱山と輸送システムの巨大化である。新興鉄鉱石生産国では日本鉄鋼企業との長期契約を前提に巨大鉄鉱山開発プロジェクトが進行した。既存鉱山の多くが労働集約的な坑内掘りであったのに対して、世界中での探鉱とフィージビリティ・スタディ(事業採算性調査)をへて新しく開発された鉱山のほとんどは大規模な露天掘りであり、高品位であるうえに規模の経済性がはたらき、採掘コストが安かった。


だが半面、大規模開発プロジェクトゆえ初期費用は膨大なものとなり、 またプロジェクトの遂行には多様な機能を必要とした。1950年代においては、いまだ小規模な粗鋼生産に見合って、東南アジアの鉄鉱石を単純買鉱、融資買鉱の形態によって輸入していたが、60年代に入るとオーストラリアをはじめとして大規模な鉄鉱山開発プロジエクトがあいつぎ、開発参加方式による輸入が増大する。


これに対応して、鉱山から出荷するための専用鉄道、積出港などの交通インフラ、海上輸送のための大型専用船や兼用船、臨海製鉄所と一体化した入着港などの巨大な物流システムが建設されるようになった(いわゅる海上輸送革命)。日本ではこのために鉄鋼合理化計画(第3次)、計画造船などが動員され、鉄鋼産業、造船産業、商社、政府系および民間金融機関などからなる官民連携。産業横断的な体制が組まれた。


第二に、取引形態にも大きな変化があった。


1950年代の供給源が近距離・小規模・多数であったのに対して、60年代に新規に開発された主要な鉄鉱山は遠距離。大規模・少数である。50年代の日本の鉄鉱石供給源は東南アジアの小規模鉱山に集中しており、銘柄ごとに鉄鋼企業とサプライヤーとの専属的・排他的取引関係をとる場合が多く、輸入代行業務も特定の商社に委託されていた。


しかし、1960年代以降新たに開発された鉱山は当該国の国有企業や欧米系の多国籍資源企業を中心とする国際コンソーシアムのかたちをとることが多かった。これら鉱山は主要なユーザーとして期待された日本鉄鋼産業にとっても巨大すぎ、単一鉄鋼企業の専属とするには売手にとっても買手にとってもリスクが大きかったので、複数企業(典型的には日本の大手すべて)が購入契約を結ぶことが必要であつた。このさい、巨大な生産力を背景としたサプライヤーの交渉力に対抗するため、 日本側は共同購入の体制をとり、契約交渉窓口を幹事会社に一本化した。


具体的には次のとおりである。①各鉄鉱山(銘柄)について、鉄鋼企業は1社ないし2社(正・副)の幹事会社を立て、契約交渉等では幹事会社が鉄鋼企業全体を代表する。②輸入契約は個別に山元―鉄鋼企業間でなされ、各鉄鋼企業は輸入実務を代行する窓口商社数社ないし十数社のあいだに自社輸入分を割り当てる。また○窓口商社のあいだにも2社程度の幹事商社が立てられ、幹事会社へのさまざまな情報サービスの提供や、窓口商社間の配船計画の調整などにあたる。幹事商社が開発参加に要する投融資の分担。肩代わりをおこなうケースも多かった。


幹事商社は輸入取扱割当において優先的地位を保証されるうえに、他の窓口商社とのあいだでリスクを分散できる。そのため、幹事商社の地位をめぐって各商社が激しく競争することになる。



戦前の日本の鉄鉱石調達

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日本の近代鉄鋼産業は南部藩士。大島高任による洋式高炉での出銑成功(1858年)以来150年あまりの歴史をもつ。ただし、 この釜石での生産は鉄鉱山と一体化された製鉄所による銑鉄までの一貫生産であり、資源調達システムの観点からいえば、古代から中国地方を中心におこなわれていた「たたら製鉄」と本質的な違いはなかった。


1901年に操業開始した官営八幡製鉄所も、当初は内地原料を使用する予定であったが、国内鉱の供給能力が不足していたため、間もなく輸移入への依存に切り替えられた。ここに鉄鉱石の大量輸移入を前提とした銑鋼一貫生産が成立し、戦後に完成することになる大量資源調達システムにとつての前史が始まる。10年代から30年代前半にかけての八幡製鉄所の鉄鉱石調達については奈倉(1984)の詳細な研究がある。以下ではその成果に加え、田部(1982)、長島(1987)などに依拠して戦前の官営八幡製鉄所(のち日本製鉄)八幡製鉄所)の鉄鉱石調達を概括し、前史の概観にかえることとする。


官営八幡製鉄所の鉄鉱石供給源は中国、朝鮮、英領マレーであった。朝鮮では日本統治下で鉄鉱山を国有化し、直接に支配していた。朝鮮鉄鉱石は第一次世界大戦直前には八幡製鉄所の調達量の3~ 5割を占めたが、品位が低いため、 その後は主要供給源にはなりえなかった。


最重要の供給源となった中国。大冶鉄鉱山からの調達は、それを所有。経営する民族企業6)との15年間の長期契約にもとづいて1900年からスタートした。04年には大蔵省預金部資金による多額の借款がなされ、八幡製鉄所へ独占的に納入し、鉱石代金を借款の元利償還に優先的にあてるという枠組みに移行した。ところが鉱山の経営不振などのために生産。調達量は低迷した。日中戦争期の38年に日本軍は大冶鉄鉱山を占領し、これを日本製鉄に与えた。この結果、42年には大幅な増産を達成したが、戦況の悪化にともなって調達できなくなっていった。


これに対して英領マレーでは、南洋鉱業7)のジョホール(スリメダン)鉄鉱山をはじめ、 日本資本によって数力所の鉄鉱山が開発され、ほぼ全量が日本向けに輸出された。マレー鉄鉱石の輸入は1921年に始まり、29年に中国からの輸入量を凌駕して最大の鉄鉱石供給源となったが、41年のイギリスによる日本資産凍結によって途絶した。


資源調達システムの観点から見れば、大冶鉄鉱山では単純輸入から融資買鉱、 さらに鉄鋼企業による国際的な垂直統合へと順を追って統合度を高める方向へ進んだことになる。当初は日中双方の利害の一致にもとづく長期契約方式であったと考えられるが、多額の借款がなされて以後の長期契約は日本の軍事力を背景としたものであり、不安定性をはらんでいた。垂直統合への進展はこの弱点をいっそうの軍事的展開によって打開しようとしたものであった。


一方、英領マレーでの開発輸入は、① 日本資本単独による開発であり、②開発主体が鉱業企業(採掘企業)であるという特徴をもつ。開発主体のうち南洋鉄鉱が日本鋼管の子会社であるが、それ以外の日本鉱業、南洋鉱業、飯塚鉄鉱はいずれも専属的供給先である八幡製鉄所とは資本的に独立した企業であった。つまり、 日本鋼管が企業グループによるキャプティブマイン(自社専属鉱山)方式を追求したのに対して、八幡製鉄所は開発輸入を担う鉱業企業と企業系列を形成したのである。


なお、戦前以来の総合商社である三井物産と三菱商事はこの時期どうしていたか。両社は岩井産業、安宅産業とともに官営八幡製鉄所の一次問屋に指定され、銑鉄。鋼材の対日輸入や国内流通については戦時統制下も含めて絶大な流通支配力をもっていた(佐藤1978)ほか、原料炭を含む石炭の取引でも重要な役割を果たしたが、鉄鉱石の開発や輸移入については主要な担い手ではなかった。


三井物産は、石炭以外の鉱物資源の分野においては、アメリカ石油、中国非鉄金属鉱石の調達のほか、三井財閥傘下企業が日本政府・軍から受命した南方(東南アジア)開発事業においてコーディネーターの役割を果たした。一方、三菱商事はその前身である三菱合資営業部の時代から大冶鉄鉱石の輸送を担当していた。そこでは自社船による中国向けの石炭・雑貨輸送と大冶鉄鉱石の対日輸送とを組み合わせて安価な輸送サービスを提供することによって八幡製鉄所の競争力を支えていた。


このような両社のエピソードは、鉄鉱石の開発輸入への参画こそ果たしていないものの、総合商社としての固有の機能が戦前からすでに発揮されていたことを示すものである。



戦後復興期の鉄鉱石調達システム

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敗戦後、1947年まで鉄鉱石輸入はGHQによって許可されず、国内鉱と砂鉄等のみによって高炉を稼働していた。48年、輸入再開の当初は中国鉱石が大部分を占めたが、49年の中国革命後は調達が困難になっていった。

1950年には外貨割当の枠内で民間貿易が復活し、51年からは自動承認輸入が併用された。一方、50年の朝鮮戦争を機に鋼材需要が高まり、粗鋼増産に必要な原料を数量的に確保するとともに、その調達コストを下げることが大きな課題となっていった。

鉄鋼産業では日本製鉄が過度経済力集中排除法の適用によって1950年に八幡製鉄と富士製鉄に分割されたほか、戦前以来の日本鋼管に加えて川崎製鉄が千葉製鉄所を建設して銑鋼一貫生産に乗り出し(53年に1号高炉火入れ)、競争的な産業組織がつくりだされつつあった。原料の大量輸入を前提とした臨海立地の新鋭銑鋼一貫製鉄所という設計思想と投資戦略が日本鉄鋼産業全体に普及し、60年代に定着することになる。

こうした情勢のもとで1952年、八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管の3社によって海外製鉄原料委員会が設立された(その後すべての高炉企業を組織し、62年には10社体制となった)10)。同委員会は新規海外鉱山の調査、開発輸入条件の交渉、物流システムの研究など、鉄鋼原料大量確保のために日本鉄鋼産業全体を代表して活動した。つまり、 日本鉄鋼企業は生産・販売では激しく競争しつつ、原料調達においては協調することとしたのである。

日本の鉄鉱石輸入は、戦後当初は単純輸入が支配的であったが、海外製鉄原料委員会の活動とそれに呼応した総合商社を中心に開発輸入への系統的な取り組みがなされた結果、1950年代初めから融資買鉱が始まった。開発参加方式1950年代の鉄鉱石輸入量は年間1、000万トン以下であった。供給源は、地域としてはマレーシア、 フィリピンなど東南アジアに集中していたが、それぞれの鉄鉱山の規模が比較的小さいため、銘柄ごとに山元―輸入商社―鉄鋼企業の排他的取引関係をとる場合が多かった。

1960年代初頭までの鉄鉱石開発輸入プロジェクトヘの投融資の主体は、鋼管鉱業、 日鉄鉱業、 日本鉱業などの鉱業企業を別にすれば、木下商店(60年、木下産商と改称)、東京通商(65年、東通と改称)などの鉄鋼専門商社、および当時の巨大貿易商社であった江商などの「関西五綿」である。

「関西五綿」をはじめとする繊維系商社は、戦前からの貿易商社であり、戦後の政府管理貿易の時期においても各種輸出組合・輸入組合や4貿易公団などの貿易実務代行をつうじて食糧や原材料など繊維以外の貿易を取り扱うようになった。1949年末から50年初にかけての民間貿易の再開にさいして、繊維産業が外貨を獲得するための輸出産業として政策的に位置づけられた。50年8月に商社の海外支店設置が許可されると、繊維系商社各社はただちに海外支店網を展開し始めた。三井物産。三菱商事がまだ解体の打撃から復活する途上であるという好条件もあり、繊維系商社は50年代に大手貿易商社として成長し、取扱商品分野を多角化していった。鉄鉱石輸入への取り組みもその一環である。

一方、鉄鋼専門商社は一貫して国内の鋼材流通の仲介が主たる業務であった。鋼材輸出は日本に駐在する外国商社や繊維系貿易商社を媒介しなければならず、直接貿易に取り組む場合も基本的には鉄鋼関連分野にとどまった。鉄鋼専門商社の多くはいずれかの鉄鋼企業とのあいだで企業系列H)の関係にある。そのうち鉄鉱石輸入の分野で代表的なものは次のとおりである。

旧日本製鉄(八幡製鉄・富士製鉄)系列:木下産商、東南貿易

日本鋼管系列:東通(旧・朝日物産)、岸本商店

川崎製鉄系列:山本商店、南洋物産




1950年代の鉄鉱石開発輸入は鉄鋼専門商社、総合商社など各種貿易商社を利用するという形態で行われていたが、現在と比較して鉄鋼専門商社の比重が高い点に特徴がある。利用される鉄鋼専門商社はいずれかの鉄鋼企業とのあいだで継続的・排他的取引を中心とする系列関係にある。この時期の有力な鉄鋼専門商社で鉄鋼企業とのあいだに資本関係のあるものは少なく、ゆるやかな系列関係であつたといえる。



日本の大量資源調達システムの確立

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1950年代半ばから70年代初めにおよぶ日本の高度経済成長において、鉄鋼産業はリーディング産業としてその先頭に立ってきた。鉄鋼企業による臨海立地の新鋭銑鋼一貫製鉄所建設ラッシュの結果、粗鋼生産量は飛躍的に増大した。60年代の10年間に世界の粗鋼生産量は34億トンから60億トンヘと2.6億トン伸びたが、日本の伸びは実にこのうち最大の3割弱を占めた。

このような高炉を中心に置く銑鋼一貫製鉄所の建設は、鉄鉱石(および原料炭)の大量輸入を前提としたものであり、 その安定。低廉確保が不可欠の条件であった。

一方、1960年12月にオーストラリアが鉄鉱石輸出を解禁し、ブラジルなどとともに新興鉄鉱石生産国として台頭してきた。ここに大量需要とそれに見合う大量供給の条件が形成され、国際的な取引が遠隔地間で大量かつ継続的におこなわれるという世界鉄鉱石市場のパラダイムが新しくつくりだされた。日本の鉄鋼企業と総合商社による大量資源調達システムの形成はこのようなパラダイム転換をもたらしたのである。

日本の鉄鉱石調達の長期的動向の概略を示すとともに、大量資源調達システム確立と鉄鉱石市場のパラダイム転換の画期的意義について検討する。

敗戦翌年の1946年には日本鉄鋼産業の生産量は銑鉄20万トン、粗鋼56万トンにまで落ち込んだが、その後、加速度的に増産を続け、高度経済成長の終点である73年には銑鉄9、000万トン、粗鋼1億1、900万トンを記録した。その後は銑鉄8、000万トン前後、粗鋼1億トン前後で一進一退の停滞局面が長く続いた。90年代から2000年代にかけてゆるやかな増産基調となり、07年には粗鋼1億2、000万トンと34年ぶりに史上最高記録を更新したが、翌年の世界同時不況により、急ブレーキがかかっている。

鉄鉱石の国内生産量は1961年に戦後最高となる280万トンを記録したが、その後は縮小し、99年以降はついに生産量の記録がなくなった。銑鉄生産に連動して増大する鉄鉱石需要は基本的に輸入によってまかなわれることとなった。鉄鉱石輸入は48年から再開され、74年に1億4、200万トンで史上最高に達した。鉄鉱石の輸入依存度は51年に早くも50%を超え、67年に90%を超え、73年に99%に達した。

参考までに1940年代前半の状況もかかげておいたが、戦前の内地の銑鉄生産量のピークは42年の430万トン、鉄鉱石輸移入量のピークは41年の570万トンである。いずれも戦後10年前後の間に凌駕し、70年代以降の規模とは比較にならない。

戦後の鉄鉱石の輸入元を国。地域別別に見れば、1950年前後に東南アジアの供給源が開拓され、50年代にインド(ゴア1)を含む)、60年代後半にオーストラリア、70年代前半にブラジルの比重が急速に拡大している。その後はオーストラリアとブラジルヘの集中傾向が徐々に進んでいる。

上、高度成長期を通じて海外供給源の開拓と輸入の増大が急激に進み、オイルショックまでに基本的な構造が確立したと見ることができる。



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