戦前の日本の鉄鉱石調達
戦前の日本の鉄鉱石調達

国際貿易を考えるとき、これまでは「日本がアメリカに自動車を輸出する」「アメリカが日本に穀物を輸出する」というように、国家と国家の間の商品交換を中心に考えてきました。

ところが20世紀後半になると、この見方だけでは世界貿易の実態を説明しにくくなります。巨大企業が国境を越えて工場を建設し、現地法人を設立し、原材料を調達し、部品を別の国から取り寄せ、完成品を世界各地で販売するようになったからです。

つまり、国際貿易の主役が「国家」だけではなくなったのです。

ここで登場するのが**多国籍企業(Multinational Corporation: MNC)**です。

多国籍企業は単に海外で商品を販売する企業ではありません。生産、販売、研究開発、資金調達、技術移転などの企業活動そのものを複数の国に配置し、それらを一つの企業組織として統合します。

すると、国際貿易にも大きな変化が起こります。

「日本企業が日本で生産した商品をアメリカに輸出する」という関係だけでなく、

日本の本社 → タイの工場 → マレーシアの部品工場 → アメリカの販売会社

というような企業内部の国際取引が発生します。

さらに、企業が「どの国で生産するか」「どこから部品を調達するか」「利益をどの国に残すか」といった判断をすることで、貿易の流れそのものが変わります。

この問題を理解すると、国際貿易は単なる「国と国との商品交換」ではなく、世界規模で組織された企業活動の一部として見えてきます。


Contents

1.多国籍企業とは何なのか

海外に工場を持つだけではない

多国籍企業という言葉から、「海外に工場を持っている大企業」を思い浮かべるかもしれません。

しかし、それだけでは不十分です。

重要なのは、企業活動が複数の国にまたがって配置され、それらが一つの企業組織のもとで統合されていることです。

本社が日本にあるとしても、

研究開発はアメリカ、
部品生産は韓国、
組立は東南アジア、
販売は欧州、
金融・資金調達は別の国、

ということが可能になります。

この場合、一つの企業が複数の国家経済を横断して活動しています。

したがって多国籍企業は、世界市場の中に自らの「企業内国際分業」をつくり出す存在だと考えることができます。

「会社の中に国境を越えた経済圏をつくる」

多国籍企業の面白いところは、国境を越える経済活動を「市場での売買」だけに任せないことです。

通常、企業Aと企業Bが取引するときには、市場で価格を決め、契約を結びます。

ところが同じ企業の本社と海外子会社との間では、同じ会社の内部に属しているため、通常の独立企業間取引とは異なる関係が成立します。

つまり多国籍企業は、

市場を利用しながら、市場の外側に企業内部の国際的な取引関係をつくる

という特徴を持っています。

これは国際貿易論にとって非常に重要な問題になります。


2.多国籍企業が急速に成長した背景

戦後の世界経済と企業活動の国際化

多国籍企業が大きく発展した背景には、第二次世界大戦後の世界経済があります。

戦後、世界貿易が拡大し、先進国の経済成長が進み、企業がより広い市場を求めるようになりました。

特にアメリカ企業は巨大な国内市場を基盤として成長し、その企業規模と資本力を背景に海外進出を拡大しました。

ヨーロッパ企業も欧州域内の市場統合や世界各地への進出を進め、日本企業も高度経済成長を経て海外進出を強めていきます。

こうして巨大企業の活動範囲が一国の国境を越えていきました。

「商品を輸出する」から「生産そのものを輸出する」へ

伝統的な貿易では、国内で商品を生産し、それを海外に輸出します。

しかし多国籍企業は、

「海外で売るなら、海外でつくったほうがいいのではないか」

と考えます。

輸送費を削減できる。
現地市場に近づける。
現地の原材料を利用できる。
現地の労働力を利用できる。
貿易障壁を回避できる。

こうした理由から海外直接投資が拡大します。

その結果、貿易と海外直接投資が競合するだけでなく、海外投資そのものが新しい貿易を生み出すようになります。


3.多国籍企業は「貿易の代替」なのか「貿易の拡大要因」なのか

ここは多国籍企業と貿易を考えるうえで最も面白い問題の一つです。

たとえば日本企業がアメリカに工場を建設したとします。

日本からアメリカへ自動車を輸出していたのなら、アメリカで現地生産を始めることによって、日本からアメリカへの完成車輸出は減る可能性があります。

この意味では、

海外生産は輸出を代替する

ことになります。

しかし、話はそれだけでは終わりません。

アメリカ工場が日本からエンジンや部品、生産設備を輸入すれば、日本からアメリカへの輸出は別の形で増えます。

さらにアメリカ工場で生産した部品を別の国へ輸出することもあります。

すると、

海外直接投資 → 新しい国際取引 → 新しい貿易

という関係が生まれます。

多国籍企業は貿易を消滅させる存在なのではなく、貿易の内容と経路を変える存在なのです。


4.「企業内国際分業」という新しい貿易

企業の中で国際分業が行われる

多国籍企業の活動が拡大すると、国際分業の単位そのものが変化します。

従来の国際分業では、

日本=自動車
アメリカ=航空機
オーストラリア=農産物

というように、国ごとに産業が分かれているように捉えられました。

しかし多国籍企業の時代になると、

日本=研究開発
韓国=部品
タイ=組立
アメリカ=販売

というように、一つの商品を完成させる工程そのものが国際的に分割されます。

しかも、その工程を別々の独立企業が担当するとは限りません。

同じ企業の子会社や関連会社が担当する場合があります。

これが企業内国際分業です。

貿易統計だけでは見えにくい世界

国際貿易統計を見ると「日本からアメリカへ100億円の部品が輸出された」という数字が出てきます。

しかし、その背景を調べると、

日本の親会社からアメリカ子会社への移動だった、

ということがあります。

さらに、その部品をつくるための材料は別の国から調達されているかもしれません。

つまり、貿易統計上は「国と国との取引」でも、その背後には一つの企業によって統合された世界規模の生産システムが存在する可能性があります。

この点が、多国籍企業時代の貿易を理解するうえで極めて重要です。


5.多国籍企業はなぜ海外へ進出するのか

市場を取りに行く

第一の理由は市場です。

海外市場で商品を販売するためには、必ずしも国内から輸出し続ける必要はありません。

現地に工場を建設すれば、現地市場の需要に直接対応できます。

また、現地の消費者の好みを把握しやすくなり、販売網も構築できます。

生産コストを下げる

第二の理由は生産コストです。

労働力、土地、原材料、エネルギーなどの条件が国によって異なるため、企業は生産工程を最も有利な場所へ移そうとします。

この動きが、国際的な生産配置を生みます。

貿易障壁を回避する

第三の理由は関税などの貿易障壁です。

輸出すると高い関税を払わなければならない国でも、現地で生産すれば関税を回避できる場合があります。

この場合、企業は「輸出」ではなく「現地生産」によって市場へ入ります。

つまり貿易政策そのものが、多国籍企業の立地を左右することになります。


6.多国籍企業は世界の生産を組織する

世界市場に合わせて生産拠点を配置する

多国籍企業は単に海外に工場を増やしているのではありません。

どこで何をつくるのかを世界規模で考えます。

ある国では研究開発を行い、別の国では部品をつくり、さらに別の国で組み立てる。

こうして企業全体として最も効率的な生産体制を構築します。

そのため、多国籍企業の成長は世界経済の国際的な生産配置を変える力を持っています。

「国際分業」から「企業主導の国際分業」へ

ここで重要なのは、国際分業を誰が決めるのかという問題です。

伝統的な貿易論では、各国の比較優位によって国際分業が形成されると考えます。

しかし多国籍企業の場合、企業が、

「この工程は日本」
「この工程は台湾」
「この工程は東南アジア」
「この市場には現地工場」

という形で生産配置を決めることができます。

つまり国際分業が、市場価格だけではなく企業の経営戦略によっても形成されるようになります。


7.多国籍企業と「企業内貿易」

多国籍企業の発展によって特に重要になるのが、親会社と海外子会社、あるいは海外子会社同士の取引です。

たとえば、

日本本社 → アメリカ子会社
アメリカ子会社 → メキシコ子会社
メキシコ子会社 → 日本本社

という循環も可能です。

ここでは、同じ企業グループの内部で商品、部品、原材料、技術などが国境を越えて移動します。

こうした取引が増えると、国際貿易のかなりの部分が企業内部の取引によって構成されることになります。

資料に掲載されたアメリカ企業の海外子会社に関する統計も、海外子会社の売上、生産、貿易などが大きな規模に達していたことを示しています。


8.企業内取引には「市場価格」がそのまま存在しない

独立企業同士なら価格交渉が必要になる

独立した企業Aと企業Bが取引する場合、Aはできるだけ高く売りたい、Bはできるだけ安く買いたいと考えます。

そのため、市場価格や交渉によって取引価格が形成されます。

ところが親会社と子会社の場合、両者は同じ企業グループに属しています。

そこで、

「いくらで売るのか」

という価格を企業グループ内部で設定する必要が生じます。

これが**移転価格(transfer price)**の問題です。

移転価格は単なる社内価格ではない

移転価格は非常に重要です。

なぜなら、企業内取引の価格を変えると、利益がどの国に計上されるかが変わるからです。

例えば、

日本本社 → 海外子会社

への部品価格を高く設定すれば、日本側の利益が大きくなり、海外子会社の利益が小さくなる可能性があります。

逆に部品価格を低く設定すれば、海外子会社側の利益が大きくなる可能性があります。

したがって移転価格は、企業経営だけでなく、国家の税収、国際的な利益配分、貿易統計にも関係してきます。


9.多国籍企業にとって「価格」は経営戦略になる

企業内取引の価格は、単なる市場価格とは違った意味を持ちます。

企業は、

どこで利益を出すのか、
どこに資金を残すのか、
どの子会社を成長させるのか、
どの国で設備投資するのか、

といった判断を行います。

そのため、多国籍企業の活動を分析するときには、単純な輸出入額だけを見るだけでは不十分です。

企業内部で資金、商品、技術、利益がどのように移動しているのか

を見る必要があります。

ここに、従来の「国際貿易論」にはなかった新しい分析課題が生まれます。


10.多国籍企業は貿易を「増やす」のか「減らす」のか

多国籍企業と貿易の関係には、二つの方向があります。

一つは貿易代替効果です。

国内で生産した商品を輸出する代わりに、海外で生産するようになれば、輸出が減ります。

もう一つは貿易創出効果です。

海外工場を設立した結果、本社から部品、機械、原材料などを輸出するようになれば、貿易が増えます。

さらに海外子会社が第三国へ商品を輸出することもあります。

したがって、

多国籍企業が増えれば貿易が減る

とも、

多国籍企業が増えれば貿易が増える

とも、一律には言えません。

重要なのは、どのような海外投資が、どのような企業内取引を生み出すのかです。


11.多国籍企業は「世界最大の企業」から始まった

アメリカ企業の圧倒的な存在感

戦後の多国籍企業を考えるとき、アメリカ企業の存在が非常に重要でした。

巨大なアメリカ国内市場で成長した企業が、豊富な資本、技術、経営能力を背景として海外進出を進めました。

自動車、石油、化学、電機、機械、食品など、幅広い産業で多国籍化が進みました。

資料に掲載されている当時のアメリカ企業の海外子会社の統計や大企業ランキングからも、その巨大な規模を確認できます。

ヨーロッパ企業も国境を越える

その後、ヨーロッパ企業も積極的に国際化しました。

欧州統合によって域内市場が拡大したことも、多国籍企業の発展を促す要因になりました。

企業にとっては、一つの国の市場ではなく、より大きな地域市場を一つの経済圏として捉えることができるようになったからです。


12.日本企業の海外進出が意味したもの

日本企業の場合、高度経済成長によって国際競争力を高めた後、海外市場への輸出が急増しました。

しかし、輸出が拡大すると貿易摩擦が発生します。

そこで日本企業は、海外に工場を建設し、現地生産を増やしていきます。

これは単なる企業の海外進出ではありません。

日本から海外へ商品を輸出する構造から、日本企業が海外で生産し、その海外拠点を世界市場の生産拠点として利用する構造へ

変化したのです。

その結果、日本企業の海外直接投資は日本の貿易構造にも影響を与えるようになりました。


13.多国籍企業は「国籍を失った企業」なのか

ここで興味深い問題が出てきます。

世界中で活動する企業を見て、

「もう日本企業でもアメリカ企業でもなく、世界企業なのではないか」

と考えたくなります。

しかし、完全に国籍を失うわけではありません。

本社所在地があります。

主要な研究開発拠点があります。

資本所有関係があります。

経営者や意思決定機構があります。

そして、本国政府との関係もあります。

つまり、多国籍企業は、

国境を越えて活動するが、国家から完全に独立した存在ではない

という複雑な性格を持っています。

この点が、後に「企業と国家の関係」という大きな問題につながります。


14.多国籍企業と国家――どちらが主導権を持つのか

多国籍企業は巨大な資本と技術を持つため、国家に対しても大きな交渉力を持つ場合があります。

たとえば企業が、

「この国では税負担が高いから投資しない」

「この国より別の国のほうが生産条件がよい」

と判断すれば、国家は企業誘致のために政策を変更することがあります。

法人税、補助金、規制、労働政策、インフラ整備などが企業誘致競争の材料になるわけです。

これは、

国家が企業を規制する

という一方向の関係ではなく、

企業が国家間の競争を利用する

という関係が生まれていることを意味します。


15.多国籍企業と発展途上国

工業化のチャンスを提供する

発展途上国にとって多国籍企業は重要な存在です。

外国企業が工場を建設すれば、

雇用が生まれる。
技術が導入される。
輸出が増える。
外貨を獲得できる。
国内企業との取引が生まれる。
経営ノウハウが移転する。

といった効果が期待できます。

特に資本が不足している国にとって、外国直接投資は工業化を進める重要な手段になり得ます。

しかし「工場が来れば発展する」とは限らない

一方で、多国籍企業の進出がそのまま経済発展を保証するわけではありません。

現地で単純な組立だけを行い、高度な技術や研究開発は本国に残す場合があります。

利益の大部分が本国へ送られる場合もあります。

現地企業が育たず、外国企業への依存が強まる可能性もあります。

そのため重要なのは、

外国企業が進出したかどうか

ではなく、

外国企業の進出によって国内にどのような生産能力が蓄積されたのか

という点です。

これは前章の南北問題とも直接つながっています。


16.多国籍企業と「従属」の問題

多国籍企業に対する批判の一つは、発展途上国が外国資本に依存する危険です。

現地経済の重要な部門を外国企業が支配すると、国内の意思決定能力が弱くなる可能性があります。

特に資源、石油、鉱業、通信などの基幹部門で外国企業への依存が強くなれば、

「経済成長はしているが、自国で経済をコントロールできない」

という問題が生じます。

これは南北問題で登場した従属論とも重なります。

多国籍企業は途上国に資本や技術を提供する一方で、国際的な支配関係を再生産する可能性もある。

したがって、多国籍企業には、

発展の担い手

という顔と、

経済的従属を生み出す主体

という二つの顔があります。


17.多国籍企業と技術移転

多国籍企業をめぐる議論では、技術移転が特に重要です。

途上国が工業化するには、資本だけでは足りません。

機械を操作する技術、製品を設計する能力、生産工程を管理する能力、品質管理、マーケティング、経営管理など、さまざまな知識が必要です。

多国籍企業が現地で生産活動を行えば、こうした知識が現地の労働者や企業に伝わる可能性があります。

これをスピルオーバーとして考えることができます。

ただし、企業にとって技術は競争力の源泉です。

そのため、最先端技術をすべて現地へ移転するとは限りません。

ここにも、

企業にとっての競争力維持

と

進出国にとっての技術移転

との間の緊張関係があります。


18.多国籍企業と「国際価格」の問題

多国籍企業が世界各地に生産拠点を持つと、企業は国ごとの価格差を利用できるようになります。

原材料は安い国から買う。

労働力はコストの低い国で利用する。

税制の有利な国に利益を配置する。

資本は金融条件のよい国から調達する。

販売価格は購買力の高い市場で高く設定する。

このように、企業は世界市場を一つの巨大な経営空間として利用します。

これは多国籍企業の強さの源泉です。

同時に、各国政府にとっては難しい問題になります。

なぜなら、国家の税制や規制は基本的に国境の内側を対象とするのに対して、企業活動は国境を越えているからです。


19.多国籍企業は「世界市場を企業の内部に取り込む」

多国籍企業の本質を非常に単純化すると、

世界市場を企業組織の中に取り込む

ことだと考えることができます。

通常なら市場を通じて、

企業A → 市場 → 企業B

という取引を行います。

ところが多国籍企業は、

本社 → 子会社 → 関連会社 → 海外工場

という企業組織を形成し、その内部で商品、資本、技術、人材を移動させます。

その結果、世界経済には、

市場によって結びついた経済圏

と

企業組織によって結びついた経済圏

が同時に存在することになります。

ここに、多国籍企業を単なる「大企業」として扱うだけでは理解できない面白さがあります。


20.新しい貿易理論が必要になる理由

従来の比較優位論だけでは説明しきれない

伝統的な貿易論では、国ごとの生産条件の違いから貿易が生まれると説明します。

しかし多国籍企業が発展すると、同じ企業が複数の国に生産拠点を持つようになります。

すると、

「なぜ日本とアメリカが貿易するのか」

だけでなく、

「なぜ同じ企業が日本とアメリカの双方に工場を持つのか」

を説明しなければなりません。

さらに、

「なぜ同じ企業の海外子会社同士が取引するのか」

「なぜ企業はある工程を海外へ移すのか」

「なぜ海外生産が輸出を増やしたり減らしたりするのか」

といった問題も重要になります。

貿易と直接投資を一体で考える

そのため、貿易論と国際投資論を別々に扱うのではなく、

貿易
+海外直接投資
+多国籍企業
+企業内国際取引

を一体として考える必要が出てきます。

これが「新しい貿易理論」へ向かう一つの重要な問題意識です。


21.多国籍企業の経営戦略が貿易構造を変える

多国籍企業の特徴は、企業自身の経営判断が国家間の貿易構造に影響することです。

例えば、

「日本からアメリカへ輸出する」

という戦略を、

「アメリカに工場をつくる」

という戦略に変えれば、貿易の流れが変わります。

さらに、

「アメリカ工場に日本から部品を供給する」

と決めれば、別の貿易が生まれます。

「アメリカ工場からメキシコへ輸出する」

と決めれば、第三国間の貿易まで生まれます。

つまり、世界貿易の構造は国家間の比較優位だけでなく、企業の生産配置戦略によっても組み替えられるのです。


22.多国籍企業とグローバル・バリューチェーン

ここから現代の視点を加えると、現在の世界経済では、この問題がさらに大きく発展しています。

スマートフォン、自動車、半導体、医薬品などを見ると、一つの製品を一国だけで完成させることはむしろ例外的です。

設計、素材、部品、製造装置、組立、ソフトウェア、物流、販売などが複数国に分散しています。

この仕組みは今日では**グローバル・バリューチェーン(GVC)**という言葉で説明されることが多くなりました。

ここで重要なのは、単に「どの国が何を輸出しているか」ではありません。

どの国・企業が、価値の高い工程を握っているか

という問題です。

研究開発、設計、ブランド、半導体設計、ソフトウェア、金融などを握る企業と、単純な組立を担う企業では、同じ輸出額であっても得られる利益や技術蓄積が大きく異なります。

これは南北問題と多国籍企業論を結びつける非常に重要な視点です。


23.「貿易摩擦」が「企業立地競争」に変わる

多国籍企業が増えると、国家間の競争も変わります。

以前は、

「日本の輸出が増えすぎてアメリカの貿易赤字が拡大した」

という形で貿易摩擦が起きました。

ところが企業が海外に工場を移せば、

「日本から輸出する」

という問題が、

「日本企業がアメリカでどれだけ生産するか」

という問題に変わります。

さらに、

「どの国が工場を誘致できるか」

という国家間競争も発生します。

つまり、貿易政策は関税だけではなく、

投資政策、税制、産業政策、インフラ政策、人材政策

とも結びつくようになります。


24.多国籍企業をめぐる国家のジレンマ

国家にとって多国籍企業は、歓迎すべき存在であると同時に、警戒すべき存在でもあります。

企業が進出すれば雇用や税収が増え、技術も導入される。

しかし、企業が巨大になれば、政府より強い交渉力を持つ場合もあります。

企業が撤退すると地域経済に大きな影響が出る。

企業が別の国へ移転すると、国家は投資を失う。

そのため政府は、

「規制したいが、規制しすぎると企業が逃げる」

というジレンマを抱えます。

この問題は現在になるほど重要になっています。


25.多国籍企業と経済主権

「企業の自由」と「国家の政策」の衝突

多国籍企業は国境を越えて活動します。

一方、国家は自国領域の中で税制や労働政策、環境規制などを決定します。

ここには構造的な緊張があります。

企業は、

「より有利な場所へ移動する」

ことができます。

しかし国家は簡単には移動できません。

そのため、多国籍企業の国際移動能力が高まるほど、国家の政策選択にも影響が及びます。

これは単純な「企業対国家」という対立ではなく、国家と企業が互いに相手を利用しながら世界経済を形成していく関係と見るほうが適切です。


26.多国籍企業の問題は「大企業の問題」ではない

多国籍企業という言葉を聞くと、巨大企業の経営問題のように思えます。

しかし本質はもっと大きいものです。

多国籍企業は、

貿易
投資
技術
雇用
金融
税制
産業政策
国家間競争

を一つにつないでしまいます。

例えば、一つの企業が海外工場を建設すると、それだけで海外直接投資の問題になります。

その工場が部品を輸入すれば貿易問題になります。

技術を移転すれば技術政策の問題になります。

利益を海外へ送れば国際収支や所得移転の問題になります。

税金をどこで払うかは租税政策の問題になります。

現地雇用が増えれば労働政策の問題になります。

つまり多国籍企業は、世界経済のさまざまな領域を横断する存在なのです。


27.多国籍企業と貿易を考えるときの三つの視点

多国籍企業と貿易の関係を整理するなら、三つの視点が重要です。

第一は、貿易と海外直接投資の関係です。

海外生産は輸出を代替する場合もあれば、部品や原材料の国際取引を増やす場合もあります。

第二は、企業内国際分業です。

一つの商品を完成させるために、複数国の子会社や関連企業が工程を分担します。

第三は、企業と国家の関係です。

多国籍企業は国境を越えて活動する一方、国家は税制、規制、産業政策を通じて企業活動を方向づけます。

この三つを組み合わせると、多国籍企業がなぜ国際貿易論にとって重要なのかが明確になります。


28.多国籍企業が変えた「国際貿易」という言葉の意味

かつて国際貿易といえば、

国で生産する → 国境を越えて輸出する → 外国で消費する

というイメージでした。

しかし多国籍企業の時代になると、

世界各地に生産拠点を置く → 部品を国際的に移動する → 技術を企業内部で移転する → 各地で加工する → 世界市場へ販売する

という構造になります。

つまり、国際貿易は「完成品の輸出入」だけではなくなります。

部品貿易、企業内取引、技術移転、海外直接投資などが一体化します。

この変化を理解しないと、現代の世界貿易は理解できません。


29.現在から見ると、多国籍企業論はさらに重要になっている

1990年代前半の議論を現在の世界経済に引きつけると、その重要性はさらに高まっています。

今日の自動車、半導体、スマートフォン、医薬品、航空機などでは、企業が複数の国に生産拠点や研究開発拠点を持つことが一般的です。

さらにデジタル化によって、工場だけでなくソフトウェア、データ、クラウド、設計情報なども国境を越えて移動します。

一方で、近年は経済安全保障の観点から、

「効率が高いから世界中に分散する」

だけではなく、

「重要部品を一つの国に依存しない」

「半導体などの戦略物資を国内でも生産する」

という考え方も強まっています。

つまり、多国籍企業によって進んだグローバル化が、今度は経済安全保障によって再編されようとしているのです。


30.多国籍企業と貿易を理解するための核心

多国籍企業の登場によって、貿易論の視点は大きく変わります。

これまでの貿易論では、

「なぜ国と国は貿易するのか」

が中心的な問いでした。

多国籍企業の時代になると、そこに、

「なぜ企業は国境を越えて生産するのか」

という問いが加わります。

さらに、

「なぜ企業は一つの商品を複数の国で分業して生産するのか」

「企業内取引は貿易をどのように変えるのか」

「多国籍企業によって生じる利益を、どの国が獲得するのか」

「国家は巨大な国際企業をどのように統治するのか」

という問題へ広がります。

ここまで来ると、貿易論は単なる「モノの輸出入の理論」ではありません。

企業が世界経済をどのように組織するのかを考える理論へと変わっていきます。

そして最も重要なのは、多国籍企業を「世界中で商売する巨大企業」とだけ理解しないことです。

多国籍企業は、生産、貿易、投資、技術、金融を一つの企業組織の中で結びつけ、国境を越えた国際分業を自ら組織する存在です。

この視点を持つと、国際貿易の風景は大きく変わります。

「日本からアメリカへ自動車が輸出された」という一行の統計の背後に、日本の研究開発、韓国や台湾の部品、東南アジアの組立、アメリカの販売網、企業内の資金移動、技術移転、移転価格、そして各国政府の産業政策が重なっていることが見えてくるからです。

貿易は国境を越える商品交換であると同時に、企業が世界規模で生産活動を組織する仕組みでもある。

この認識こそ、多国籍企業時代の貿易を理解するための出発点になります。