日本の高度経済成長を支えた産業というと、自動車や家電製品を思い浮かべる人が多いかもしれません。しかし、自動車をつくるには鉄鋼やアルミニウムが必要です。家電製品にはプラスチックや化学素材が使われ、工場を動かすには電力や石油が欠かせません。つまり、目に見える製品をつくる産業の背後には、社会全体の生産活動を支える「素材産業」が存在しています。
素材産業は、鉄鋼、石油化学、化学肥料、セメント、アルミニウム、電力、石油精製など、原材料やエネルギーを供給する産業です。一般消費者との接点は少なくても、素材の価格や供給が変化すれば、自動車、住宅、機械、農業、運輸など、幅広い産業に影響が及びます。
日本の素材産業は、戦後の高度経済成長期に大規模な設備投資を行い、世界でも競争力の高い生産体制を築きました。ところが、石油危機による原料価格の上昇、環境問題、資源確保の難しさ、国内需要の成長鈍化などによって、それまでの成長モデルは大きな転換を迫られます。
この変化を理解するには、素材産業を単なる製造業の一分野としてではなく、設備投資、エネルギー、国際競争、環境、産業政策が交差する基盤産業として捉えることが重要です。
1. 素材産業とは何か――あらゆる産業を下から支える基盤
素材産業は「ものづくりの出発点」である
素材産業の役割は、他の産業が製品を生産するために必要な材料やエネルギーを供給することです。鉄鋼業は自動車の車体や建築物、船舶などに使われる鋼材を生産します。石油化学工業は、プラスチック、合成繊維、合成ゴムなどの原料を供給します。セメント産業は建築物や道路、橋梁などの社会基盤を支え、電力産業は工場や家庭の活動に必要なエネルギーを供給します。
素材産業には、大きく分けて二つの性格があります。一つは、鉄鋼や化学製品のように、他の産業の生産活動に使われる「生産財」を供給する性格です。もう一つは、電力や石油など、産業活動全体を動かすエネルギーを供給する性格です。
例えば、自動車メーカーが燃費のよい車を開発しても、鋼材や樹脂の品質が低ければ、安全性や耐久性を確保することは難しくなります。半導体産業が発展するためにも、高純度の化学薬品や特殊ガス、電力の安定供給が必要です。素材産業の技術水準が、最終製品の性能や製造コストを左右するのです。
素材産業の成長は、他産業の成長を呼び込む
素材産業の大きな特徴は、設備投資の規模が大きく、その投資が経済全体に波及しやすいことです。
製鉄所や石油化学コンビナート、発電所を建設するには、大量の鉄鋼、機械、建設資材、電力、輸送サービスなどが必要です。設備を建設する段階で需要が生まれ、稼働が始まれば、さらに原料や部品、保守サービスへの需要が発生します。素材産業自身が成長するだけでなく、関連する多くの産業の生産活動を押し上げます。
高度経済成長期の日本では、この仕組みが強く働きました。素材産業への投資が鉄鋼や機械、建設、運輸などの需要を生み、それらの産業の成長が素材需要をさらに増やすという循環が形成されたのです。
なぜ政府が素材産業を重視するのか
素材産業は、経済全体に占める影響が大きいため、一企業の経営問題にとどまらない性格を持ちます。電力や石油が不足すれば、多数の工場や家庭に影響が広がります。鉄鋼や化学製品の供給が滞れば、建設や機械製造などの生産活動にも支障が生じます。
このため、多くの国では、エネルギーや基礎素材を国家的に重要な産業として扱い、政府が料金制度、供給計画、設備投資、資源確保などに関与してきました。素材産業の経営は民間企業が担っていても、その安定性は国の経済安全保障と深く結びついているのです。
2. 高度経済成長を支えた大規模設備投資
設備投資が経済成長を動かした
日本の素材産業は、1950年代から1970年代前半にかけて、設備投資を通じて急速に発展しました。素材産業の設備投資は民間設備投資総額の約3割を占める時期が続きました。素材産業への投資が、日本経済の成長を引っ張る重要な力になっていたことがわかります。
この時期、鉄鋼、石油化学、セメントなどでは、生産設備を大型化する技術が急速に進歩しました。より大きな高炉や石油化学プラントを建設することで、同じ量の製品を生産するために必要な設備や労働力を相対的に減らし、製品一単位当たりのコストを下げられるようになりました。
大量生産によってコストを下げる仕組み
ここで重要なのが「規模の経済」です。規模の経済とは、生産規模が大きくなるほど、製品一単位当たりの平均費用が低下する現象です。
例えば、ある設備の建設に1,000億円かかるとします。年間100万トンを生産する設備と、年間300万トンを生産する設備では、建設費が生産能力に比例して増えない限り、大型設備のほうが製品一単位当たりの設備費を抑えられます。もちろん、実際には原料費やエネルギー費、保守費用もかかるため、規模を大きくするだけで必ず安くなるわけではありません。それでも、需要が十分にあり、設備を高い稼働率で動かせる場合には、大型化が大きな競争力につながります。
当時の日本では、住宅建設、道路整備、工場建設、自動車生産、家電製品の普及などによって、鉄鋼や化学製品への需要が急増していました。大型設備を建設しても、完成後すぐに大量生産できる市場があったため、設備投資の効果が現れやすかったのです。
技術革新と市場拡大が互いを押し上げた
素材産業の成長は、単に工場を増やした結果ではありません。生産技術の進歩と需要の拡大が、互いを促進する関係にありました。
需要が伸びると、企業は大型設備への投資を行います。設備が大型化し、生産効率が向上すると、製品価格を下げたり、供給量を増やしたりできるようになります。その結果、鉄鋼や化学製品を利用する産業も発展し、素材への需要がさらに増加します。
この循環がうまく機能している間は、企業は積極的に設備投資を行い、経済全体も成長します。しかし、需要が伸びなくなったときには、同じ仕組みが逆方向に働きます。巨大な設備を維持するために大量生産を続けようとしても、製品が売れなければ設備が余り、コスト負担が重くなるからです。
素材産業の強みであった大型化と大量生産は、需要が増える局面では強力な武器になりますが、需要が停滞する局面では経営上の重荷にもなります。
3. 日本の素材産業が世界的な競争力を獲得した理由
原料を輸入し、臨海部で効率的に生産する
日本の素材産業は、国際競争力を高めるために、生産設備だけでなく、工場の立地や輸送方法も合理化してきました。
日本は鉄鉱石や原料炭、原油などの主要資源に乏しく、海外から大量に輸入する必要があります。そのため、製鉄所や石油精製所、石油化学コンビナートなどは、原料を船で運び込みやすい臨海部に集中的に建設されました。大型船で大量の原料を運び、港から工場へ効率的に搬入し、加工した製品を再び船で国内外に出荷する仕組みです。
このような立地は、輸送費の削減に役立ちます。さらに、同じ地域に製鉄所、発電設備、化学工場、関連企業などが集まれば、原料やエネルギー、副産物を企業間で融通しやすくなります。ある工場で生じた副産物を別の工場の原料として利用できれば、資源の無駄を減らすこともできます。
こうした関連設備や企業の集積は、一般に「コンビナート」と呼ばれます。日本の臨海型コンビナートは、大型設備、効率的な物流、企業間の連携を組み合わせることで、低コストの生産体制を実現してきました。
海外資源に依存しながら、国内加工で強みを発揮する
日本の素材産業の特徴は、資源そのものを豊富に保有していたわけではないにもかかわらず、輸入した資源を高度に加工することで競争力を獲得したことです。
鉄鉱石を輸入して高品質の鋼材に加工し、原油を精製して燃料や化学原料を生産する。こうした加工工程では、設備の性能だけでなく、操業条件の管理、品質の安定化、不良品の削減、保全技術などが重要になります。
例えば、製鉄所では高炉や圧延設備を導入するだけでは十分ではありません。原料の品質や温度、設備の状態を適切に管理し、求められる寸法や強度を持つ鋼材を安定的につくる必要があります。大量生産をしながら品質のばらつきを抑える能力が、国際競争力を左右します。
ただし、原料の大部分を海外に依存する構造は、弱点にもなります。原油価格が急上昇したり、資源国が輸出政策を変更したり、海上輸送が妨げられたりすれば、国内の工場が優れた設備を持っていても、生産コストや供給の安定性に影響が及びます。
つまり、日本の素材産業は、国内加工の効率性によって強みを発揮する一方で、資源の調達を国際情勢に左右されやすいという構造的な課題を抱えてきたのです。
4. 素材産業の特質――寡占化と設備稼働率の問題
巨額の投資が参入障壁を生む
素材産業には、工場を建設するために巨額の資金が必要という特徴があります。製鉄所や石油化学プラント、発電所などは、設備を建設するだけでなく、原料調達、輸送設備、環境対策、保守体制なども整えなければなりません。
そのため、新しい企業が容易に参入できるわけではありません。既存企業は大規模設備を持ち、技術や顧客、物流網を蓄積しているため、競争相手が限られやすくなります。結果として、少数の大企業が市場の大きな部分を占める「寡占」が生じやすいのです。
寡占そのものが必ず悪いわけではありません。大規模な設備投資や長期的な技術開発を可能にし、安定供給を支える場合もあります。しかし、競争圧力が弱まると、価格が下がりにくくなったり、企業が効率化への努力を弱めたりする可能性があります。
需要が落ち込むと、設備の維持が経営を圧迫する
素材産業では、設備の稼働率が特に重要です。工場を建設するための固定費は、製品が売れても売れなくても発生します。設備の稼働率が高ければ、固定費を多くの製品に分散できますが、稼働率が下がると、製品一単位当たりの固定費が増えてしまいます。
例えば、年間100万トンを生産することを想定して設計された工場が、需要の減少によって50万トンしか生産できなくなったとします。設備の維持費や人件費などの固定的な負担が大きく変わらなければ、製品一単位当たりの費用は上昇します。企業は利益を確保するために価格を下げて販売量を増やそうとするかもしれませんが、同じことを競合企業も行えば、過当競争に陥る可能性があります。
一方、供給企業が少ない市場では、需要が低迷していても価格が十分に下がらず、利用する側の企業が高いコストを負担することもあります。素材産業では、設備の過剰と市場の寡占という二つの問題が、状況によって異なる形で表面化するのです。
設備投資の判断が難しい産業
素材産業の設備は、計画から建設、操業開始までに長い時間がかかります。投資を決めた時点では需要が急増していても、数年後に設備が完成する頃には景気が後退している可能性があります。
逆に、需要が旺盛なときに投資を先送りすれば、供給不足によって販売機会を逃すかもしれません。需要の見通しを誤れば、巨大な設備が長期間にわたって企業経営を圧迫します。
このため、素材産業では短期的な売上だけでなく、将来の需要、国際価格、原料調達、技術革新、環境規制などを総合的に考慮する必要があります。設備投資の意思決定そのものが、経営の中核となるのです。
5. 石油危機と資源価格の上昇――競争力の前提が変わった
安い資源を使えることが当たり前ではなくなった
日本の素材産業は、海外から資源を輸入し、国内で効率的に加工することで成長してきました。しかし、1970年代の石油危機は、この成長モデルの前提を揺るがしました。
1973年の第一次石油危機では、原油価格が急上昇し、石油を大量に使用する産業は大きな打撃を受けました。素材産業のなかでも、石油を燃料や原料として大量に使う石油化学、アルミニウムなどは、コスト構造の変化に直面しました。原油の価格上昇は、直接的な燃料費だけでなく、輸送費や電力費などを通じて幅広い産業に波及しました。
それまで日本企業は、大型設備による効率的な生産によって国際競争力を高めてきました。しかし、資源価格が大きく変われば、生産効率の高さだけではコスト競争力を維持できなくなります。
素材によって影響の大きさは異なる
資源価格の上昇が、すべての素材産業に同じ影響を与えるわけではありません。石油を原料や燃料として多く使う産業では、価格上昇の影響が大きくなります。電力消費の多い産業も、電力料金の上昇を通じてコスト負担が増します。
一方、製品の品質や加工技術に強みがあり、顧客が簡単には別の供給元に切り替えられない場合には、コスト上昇の一部を価格に反映できる可能性があります。逆に、世界市場で似たような製品を多くの国が供給している場合、原料費が上昇しても販売価格に転嫁できず、利益が圧迫されやすくなります。
素材産業の競争力は、設備の新しさや生産規模だけでは決まりません。資源価格、エネルギー構成、製品の差別化、供給先との関係などを含めて評価する必要があるのです。
資源の安定確保が経営課題になった
資源価格が上がり、資源国の交渉力が強まると、企業は単に市場で原料を購入するだけでは不十分になります。長期契約を結ぶ、海外の資源開発に参加する、資源国に関連工場を建設する、備蓄を増やすなど、調達の安定性を高める取り組みが重要になります。
ただし、資源国への投資にはリスクがあります。現地のインフラが十分でなければ、設備を建設しても期待どおりに稼働しないことがあります。技術者や熟練労働者が不足していたり、制度や政治情勢が変化したりする場合もあります。資源が豊富な場所に工場を移せば、必ず低コストで生産できるとは限らないのです。
素材産業にとって、資源確保とは鉱山や油田を押さえるだけの問題ではありません。輸送、発電、労働力、設備保全、制度の安定性まで含めた、総合的な供給網の構築が求められます。
6. 環境問題と立地制約――工場を大きくすればよい時代の終わり
公害問題が素材産業のあり方を変えた
素材産業は、大量の原料やエネルギーを使用するため、環境への影響が大きくなりやすい産業です。製鉄所や石油化学工場、発電所などでは、大気汚染、水質汚濁、廃棄物、温室効果ガスの排出などが問題になります。
高度経済成長期には、生産能力の拡大とコスト削減が重要な経営課題でした。しかし、工場が集積する地域では、煙や排水による環境汚染、港湾や航路の混雑、工場用地の不足などが深刻化しました。素材産業の発展によって経済が豊かになる一方で、その生産活動が地域住民の生活環境を損なうという矛盾が生まれたのです。
環境対策は、単に工場の外側に設備を追加すれば終わる問題ではありません。原料の選択、製造工程、エネルギーの使い方、排水処理、廃棄物の回収まで、工場の生産システム全体を見直す必要があります。
環境対策はコストであると同時に技術革新でもある
排煙処理設備や排水処理設備の導入には費用がかかります。しかし、環境対策を通じて省エネルギー化や原料利用の効率化が進めば、長期的には生産コストの削減につながる場合もあります。
例えば、製造工程で発生する熱を回収して再利用すれば、外部から購入するエネルギーを減らせます。副産物を別の工程で活用すれば、廃棄物の量を抑えながら原料の利用効率を高められます。こうした改善は、環境負荷の低減と経済性の向上を同時に実現する可能性があります。
現代では、気候変動対策も素材産業の重要課題です。鉄鋼業では製造工程からの二酸化炭素排出を減らす技術が求められ、化学産業でも原料転換やリサイクル、製造時のエネルギー削減が課題になっています。環境性能は、企業の社会的責任にとどまらず、国際競争力を左右する要素になりつつあります。
臨海部への集中から、立地の再検討へ
日本の素材産業は、輸入原料を効率よく扱うために臨海部へ集中してきました。しかし、工場の集積が進むほど、土地の確保、港湾の混雑、環境への影響といった問題も大きくなります。
当時は、海洋土木技術の進歩によって外海側に新しい工場用地を確保できるという考え方も示されていました。ただし、実際の立地変更には、建設費、港湾整備、環境保全、災害リスク、物流網など、多くの条件を考慮する必要があります。
工場の立地は、原料を運びやすいかどうかだけで決められるものではありません。地域社会との関係、災害時の安全性、エネルギー供給、環境負荷まで含めて考える必要があります。
7. 海外進出と国際分業――素材産業をどこで生産するのか
資源国への進出には合理性がある
原料の安定確保と生産コストの削減を目的として、日本企業は海外での資源開発や工場建設を検討してきました。資源国に工場を設ければ、原料の輸送費を抑えられる可能性があります。また、現地で豊富なエネルギーを安価に利用できる場合には、電力消費の大きな産業にとって有利な条件となります。
アルミニウム製錬は、電力を大量に必要とする産業の代表例です。電力価格が生産コストを大きく左右するため、安価で安定した電力を確保できる地域は立地先として魅力があります。
ただし、原料やエネルギーが豊富であることと、工場を効率よく運営できることは同じではありません。港湾や道路が不十分であれば設備や原料の搬入が遅れます。熟練労働者が不足すれば、設備の能力を十分に引き出せないことがあります。保守部品や技術者の確保が難しければ、故障時に長期間の操業停止が発生する可能性もあります。
素材産業は設備への依存度が高いため、工場を建設するだけでなく、長期にわたって安定的に操業できる環境を整えることが重要です。
技術や人材を含めた産業移転が必要になる
素材産業の海外進出は、工場や機械設備を輸出すれば完了するというものではありません。生産設備を適切に動かし、品質を維持し、事故や故障を防ぐためには、現地の人材育成や保全技術の移転が必要です。
この点は、産業の海外移転を考えるうえで重要です。設備を導入するための資金があっても、運転や保守に必要な知識が不足していれば、設備能力を十分に発揮できません。企業には、設計・建設から操業支援、人材育成、品質保証まで、広い範囲で責任を求められる場合があります。
そのため、海外進出の採算性を評価する際には、工場建設費だけでなく、技術者の派遣費用、教育費、部品供給、操業支援、政治的リスクなども含める必要があります。資源国への進出は、資源確保に役立つ一方で、投資リスクや経営負担を増やす可能性もあるのです。
素材産業の海外移転は、日本の輸出構造も変える
素材産業の生産が海外へ移れば、日本から輸出する製品の構成も変わります。鉄鋼や化学製品の輸出が減り、代わりに機械、プラント、制御装置、製造技術、保全サービスなどの輸出が増える可能性があります。
これは単なる工場の移転ではなく、産業間の役割分担の変化です。日本国内では高付加価値の製品や技術開発を担い、海外では原料やエネルギーの条件に適した生産を行うという国際分業が考えられます。
ただし、素材産業を海外に移せば、日本国内の産業が自動的に高度化するわけではありません。素材の安定供給が失われれば、国内の機械や自動車などの加工産業も影響を受けます。素材の供給能力をどの程度国内に残し、どの部分を海外に任せるかは、産業全体を見渡して判断しなければなりません。
8. 需要の成長鈍化と産業再編――大量生産モデルの限界
高度成長期と同じペースでは設備を増やせない
高度経済成長期には、国内需要が急速に拡大し、素材産業は大規模な設備投資を続けることができました。しかし、経済成長率が低下し、住宅、道路、工場、自動車などへの需要の伸びが鈍くなると、従来と同じように設備を拡張しても、十分な販売量を確保できるとは限りません。
こうした需要成長の鈍化が素材産業の設備投資を停滞させ、コスト低減を難しくする可能性が指摘されています。また、鉄鋼以外の素材産業では、国際競争力の問題が深刻化する可能性にも注目しています。
ここで問題となるのは、素材産業が持つ固定費の大きさです。需要が伸びなければ、設備を増やして生産コストを下げる戦略が成立しにくくなります。設備を増やさなければ技術革新や効率化が遅れ、設備を増やせば過剰能力を抱える危険が高まります。
産業再編と設備の選別が必要になる
需要の成長が鈍化する局面では、単純な増産よりも、どの設備を残し、どの設備を更新し、どの設備を停止するかという判断が重要になります。
古い設備を維持し続けるよりも、高効率の設備に生産を集約したほうが、全体としてコストを下げられる場合があります。企業同士が設備を統合したり、製品分野ごとに役割分担したりすることも選択肢になります。
ただし、設備の集約には地域経済や雇用への影響があります。素材工場は大規模な雇用を生み出すだけでなく、物流、保守、建設、関連加工業など、多くの企業を支えています。工場の縮小や閉鎖は、地域社会全体に波及する可能性があります。
そのため、産業再編では企業の採算性だけでなく、雇用の移行、地域の産業構造、代替産業の育成なども考慮する必要があります。
素材産業から高付加価値産業へ移るには何が必要か
素材産業の高度化は、単に製造量を減らし、研究開発型の産業へ移行すれば実現するものではありません。素材そのものの性能を高めたり、顧客の製造工程に合わせた材料を開発したり、品質保証や技術支援を充実させたりすることも、高付加価値化の道筋です。
例えば、鋼材であれば、ただ大量の鉄を供給するのではなく、自動車の軽量化や安全性に対応した高機能鋼材を開発する方向が考えられます。化学産業であれば、汎用的な化学製品だけでなく、電子材料や高機能樹脂など、特定の性能が求められる分野に強みを築くことができます。
素材産業は、必ずしも最終製品をつくらないから付加価値が低いわけではありません。素材の性能が最終製品の競争力を大きく左右する場合には、材料の研究開発や製造ノウハウが重要な価値を生み出します。
9. 素材産業の将来を考える――資源、環境、経済安全保障
資源の安定供給は産業政策の問題でもある
素材産業は、海外からの資源供給に大きく依存するため、国際情勢の変化に影響されやすい産業です。資源国の政策変更、国際紛争、輸送経路の混乱、資源価格の急騰などは、素材の生産コストや供給量に直結します。
そのため、企業の調達努力だけでなく、国としての資源外交、備蓄、供給源の多様化、重要物資の確保などが重要になります。備蓄には費用がかかりますが、供給が途絶えたときの経済的損失を抑える保険として考えることができます。
さらに、特定の国や地域への依存を減らすためには、複数の調達先を確保し、輸送経路を分散させることも有効です。資源の安定供給は、平常時のコストだけでなく、供給途絶のリスクまで含めて考える必要があります。
脱炭素化は素材産業の競争条件を変える
現在の素材産業にとって、大きな課題の一つが脱炭素化です。鉄鋼、化学、セメントなどは、高温の熱や大量のエネルギーを必要とする工程を持つため、排出削減が容易ではありません。
省エネルギー設備への更新、再生可能エネルギーの利用、原料の転換、リサイクルの拡大など、複数の手段を組み合わせる必要があります。鉄鋼業では製鉄工程の転換、化学産業では原料や製造工程の見直しなどが重要なテーマになります。
脱炭素化には大規模な投資が必要です。設備更新の費用を製品価格に反映できるか、低炭素素材への需要がどの程度伸びるか、安価で安定した低炭素エネルギーを確保できるかによって、企業の競争力は変わります。
つまり、環境対策は従来の生産体制に追加するだけの費用ではなく、今後どの企業が素材を供給できるかを左右する競争条件になっています。
リサイクルは資源輸入への依存を減らす手段になる
資源の安定確保を考えるうえでは、海外から新たに資源を輸入することだけでなく、使用済み製品から素材を回収して再利用することも重要です。
鉄スクラップを再び鉄鋼生産に利用したり、アルミニウムを回収して再生したりすれば、天然資源の使用量や製造時のエネルギー消費を減らせる場合があります。プラスチックについても、回収した材料を再利用する仕組みや、化学的な方法で原料に戻す技術の開発が進められています。
もっとも、リサイクルだけで必要な素材をすべて賄えるわけではありません。回収量には限界があり、異なる材料が混ざっている場合には分別や処理が必要です。再生素材の品質を安定させるための技術も求められます。
それでも、資源を採掘し、加工し、使い終わったら廃棄するという一方向の流れから、素材を回収して再利用する循環型の仕組みへ移行することは、資源安全保障と環境対策の両面で重要な意味を持ちます。
10. 日本の素材産業から学べること
日本の素材産業の発展史からは、産業政策や企業経営を考えるうえで、いくつもの重要な教訓を引き出せます。
第一に、産業の競争力は個別企業の技術だけで決まるわけではありません。設備の規模、物流、原料調達、エネルギー、関連企業の集積など、産業を支える仕組み全体が競争力を生み出します。日本の臨海型コンビナートは、こうした要素を組み合わせて効率的な生産体制を築いた例です。
第二に、強みを生み出した仕組みが、環境の変化によって弱点にもなります。大型設備と大量生産は、需要が急増する局面では大きな優位性を発揮します。しかし、需要が伸びなくなれば、設備の維持費や過剰生産能力が企業を圧迫します。産業政策や経営戦略では、現在の成功だけでなく、将来の需要変化も考慮しなければなりません。
第三に、資源を持たない国でも、加工技術や生産システムを磨くことで国際競争力を獲得できます。一方で、原料を海外に依存する構造は、国際情勢や資源価格の変化に弱い面を持ちます。技術力の向上と資源調達の安定化は、切り離して考えられません。
第四に、素材産業の高度化とは、必ずしも従来型の産業をなくすことではありません。素材の品質や機能を高め、環境負荷を下げ、安定供給を実現することも、産業を高度化する重要な方法です。鉄鋼や化学製品は、機械、電子機器、建築、医療など、さまざまな産業の基盤であり続けます。
そして第五に、素材産業の課題は企業だけでは解決できません。資源外交、港湾や電力などのインフラ、環境規制、技術開発、人材育成、地域経済への対応など、政府や自治体、大学、関連企業が関わる政策課題でもあります。
日本の素材産業は、高度経済成長期に大規模な設備投資と生産技術の革新によって世界的な競争力を獲得しました。しかし、資源価格の上昇、環境制約、需要の成長鈍化、国際分業の変化によって、成長を支えた条件は大きく変わっています。
これから求められるのは、過去の大量生産モデルをそのまま維持することでも、素材産業を一律に縮小することでもありません。必要な素材を安定的に供給しながら、資源とエネルギーを効率的に使い、環境負荷を減らし、高い付加価値を生み出す産業構造を築くことです。素材産業の競争力は、これからも日本のものづくり全体の競争力を左右する重要な基盤であり続けるでしょう。
